近松門左衛門と心中のはなし

こんばんは。
今回も前回に引き続き、近松門左衛門のお話です。

歴史の授業で必ず出てくるので、その名前だけはよく知られている近松門左衛門。
日本の演劇の歴史上欠かすことのできない存在であり、またこんなすごいことをした人なんです!というお話を前回の記事では書かせていただきました。

今日は、近松門左衛門の作り上げるお話は実際に観客に、そして江戸時代の社会に具体的にどんな影響をもたらしたのか?ということについてお話しします。

ひとつ前のこちらの記事を読んだあとで今日の記事を読んでいただくと、より近松門左衛門のすごさを感じていただけるのではないかなと思いますので、ぜひあわせてご覧くださいね。


「世話物」とのちに名付けられる作品の舞台で、はじめて庶民を物語の主人公として登場させた近松門左衛門。

そんな近松門左衛門の名前を世に知らしめ、現在も最もよく知られている「世話物」の作品といえば、『曽根崎心中』(1703年)です。
その名前聞いたことある!という方もたくさんいると思います。

タイトルに「心中」とあるとおり、『曽根崎心中』は自らの命を絶った男女の物語。

これは実際に大阪の曽根崎で起きた、遊女お初と醤油商の奉公人である徳兵衛の心中事件から着想した作品なのですが、なんと近松門左衛門は事件発生からわずか1か月で、浄瑠璃作品として発表するというスピードの早さ!

お初が21歳、徳兵衛が25歳。
若い男女の心中というだけでも当時大きな話題となった事件、近松門左衛門が浄瑠璃作品として発表し大評判となったことで、それ以降男女の心中を描いた「心中物」と呼ばれる作品が続々誕生、大ブームが訪れます。

この「心中物」の大ブーム、なんと実際に庶民の間で、心中そのものを流行させてしまいました。

いわば社会現象と化してしまった心中、頭を抱えた幕府によって、「心中物」の上演、出版と、心中そのものの禁止令が出されたほど。
『曽根崎心中』が世に出てから20年後のことでした。

レディ・ガガのシューズを手掛けたことでも有名なデザイナー  舘鼻則孝さんによる文楽「TATEHANA BUNRAKU : The Love Suicides on the Bridge」で使われた舞台。近松門左衛門の『心中天網島』が題材。



なぜ「心中物」ブームはそこまでの現象を引き起こしたのでしょう?

心中をした男女の中には、お初徳兵衛をはじめとする「心中物」に登場する男女への憧れから、

なかば衝動的に自らも心中を選んでしまった男女

もおそらくたくさんいたことでしょう。

ですが中には、

決して彼らを他人と思えず、心中という選択をせざるを得なかった男女

もたくさんいたのだと思います。

等身大の存在である庶民が主役となり、また彼らの恋愛模様や人間の心の葛藤が細かく描かれていたからこそ、観客は登場人物に自分自身を重ね合わせることができたのです。

決して他人事とは思えないその物語に心を馳せ、涙を流し、中には心中の道を選んだ男女もいたほど、近松門左衛門の作る劇は庶民にとってたいへんリアリティのあるものだったということがよく分かりますよね。

近松門左衛門の手がけた作品は「世話物」よりも「時代物」の数のほうが圧倒的に多いですが、いずれにおいても、人間の心の弱さ、生きづらさ、どうしようもなさが、非常に繊細な筆致で描かれています。
(これも詳しくお話しできればと思いますが、今回は既に長文なためまたの機会に。笑)
後に登場する著名な浄瑠璃作家たちにも多大な影響を与えた人物であり、日本の演劇史上でおそらく最も重要な人物の1人ではないかと思いますので、みなさんもぜひ近松作品を観てみてくださいね。

近松門左衛門と関係の深い人物についても書く予定でしたが、今回は長くなってしまったので次回以降に。
ここまでお読みいただいたみなさま、おつかれさまでございました(笑)

では、またのお越しをお待ちしております!
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